2018年08月

最近、windows10に標準装備されているGameDVRなるものを使って、
動画撮影→投稿という流れを繰り返しています。

特にBVEを撮影しているのですが、
国鉄型と呼ばれる車両は軒並み操作が難しいですね。

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特にこいつに関しては。



先日運転操作などを見る機会があったのですが、最近1段制動1段緩めを
見た覚えがないです。

見よう見まねでやってみようにもわからない始末で。
車両の癖も…といった感じやってみました。

ぜひご覧ください。

鉄道コム

ブログ村



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鉄道系の写真、

車両にスポットを当てると、様々な撮影の仕方があります。


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また、その出来栄えの良さは、撮影者の技量と感性に委ねられます。


編成写真においては、特に好みが分かれるのではないかと思います。

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ストレートで撮影する利点は、
個人的に思うことが

・その編成がどのような組成の仕方になっているのか一目でわかること
・流し撮りがしやすい
・カメラ操作の基本がわかっていれば初心者でも撮影できること
この3点にあると思います。


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一方カーブの場合は、

・内角で迎え撃った場合は編成全体を写しやすい
・外角で迎え撃った場合は流し撮りをしやすい


また個人的な感覚ですが、
直線的なものだと流さないとその列車の躍動感が分かりにくいですが、
カーブで撮影した場合だと車両の躍動感というものが伝わりやすいように感じます。

具体的に言うと、
入線するという事が一目で伝わってくるという事です。


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どちらにも言えるものとして、
被った場合は最悪タイミングを合わせさえすれば並び写真が完成する
という事でしょうか。


さて、皆さんはどちらがお好みですか?




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5100系は現在、

5102・5108・5132・5136・5146の計5編成が編成短縮の上
各支線または能勢電鉄にその籍を移しました。

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その中で用途不要として廃車されたのは、僅か3両。

5102Fのうち5103・5119号と5112Fの5112号です。

それ以外は余すことなくすべて支線に転属されています。

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*今回、5000系のリニューアルに5100系の中間車が回されたという話は
触れないでおきます(今回のことに直接関係があるか怪しいので)
(なお、神戸本線の5000系も残るはこれだけですので記録はお早めに)


話はそれましたが、5100系の支線転属に関わってなぜ廃車になった車両数が
少ないのかというと、

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(画像は6026F)

中間運転台及び乗務員室がそのまま残されていたことが非常に大きいです。

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通常編成を組むときは、中間運転台が最初から省略されているか、
工場内での短距離移動の時にちょっと使用する程度で、
設備も簡略化されているというパターンがあります。


阪急や阪神の場合は、特にツーハンドル車の場合、
元々短編成だったものを長編成にしたという経緯もあります。

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梅田と河原町側の先頭車で車番の下一桁が異なるのもこのためです。
(これは他の形式でも同様。)

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それで、編成を組むときに中間車両となった先頭車の運転台を完全に撤去し、
純粋な中間車としました。

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この時に乗務員用扉も埋められ、窓も固定化されました。

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その場合、編成短縮や支線転属と言ったときに
どうしても編成を外れる車両が出てしまいます。

(京都本線ではそもそも転属させるような支線が存在しないので、
中間運転台の残存の有無にかかわらず大体編成丸ごと廃車か一部車両の
脱車以外に手はありませんが)


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実際、中間運転台を完全に埋めた車両が支線に転属する際、
どうしても中間車両は編成中から外されました。

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5100系の場合、編成組み換えなど様々な経緯があって2両または4両の1編成で
8両を組むようになっていました。

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その時組んだ編成の運転台または
乗務員室は単独で存続され、これが支線転属の時に有利になりました。


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特に能勢電鉄の場合、5100系の転属当初保有していた1500系や1700系は、
元はと言えば2000・2100系の改造車種のため、能勢電鉄の車両近代化には
一定の役割を果たしたものの、老朽化は深刻でした。

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2両編成に至っては置き換え車両が阪急の中に
増結以外で存在するのが5100系と5300系のみ、

更に5300は京都本線の車両だったため、車体の建築規格が少し異なります。

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そこで白羽の矢が立ったのが5100系でした。

中間運転台の残存、
2・4両固定編成のままの存続
元神宝線の車両

それを満たすのは最早5100系だけでした。

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ここにきて、ようやく固定編成の弱点というのが現れた気がします。




これからも更新を続けてまいりますので、
応援ついでに上記リンクを推していただくと幸いです<(_ _)>

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通常優等列車は、間にある小駅を通過してこそ成り立つものです。

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しかし、ごくまれに優等列車を名乗っておいて通過駅が一つもない
というパターンもあります。

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近鉄のお得意様阪神電鉄では、
山陽電鉄須磨浦公園始発の神戸三宮行き特急が運行されていました。
(普通列車幕が無かったという仕方ない点もありますが)


しかしこのダイヤ改正、近鉄では、

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この幕がきっちり用意されているにもかかわらず、やってくれました。

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問題の列車は土日休日の朝、

吉野6時02分発古市行き準急第712列車。

当然ですが通過駅など存在せず、全区間各駅停車です。

古市には7時28分に到着します。



この列車の設定理由は不明としか言いようがないほど謎に包まれています。

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なぜなら南大阪線から直通してかつ、同じ区間を走行する各駅停車があります。

また画像はありませんが、阿部野橋から吉野までを走破する準急も少数ながら
設定されています。

今回設定された古市行きも元はと言えば阿部野橋行き準急でした。

(2009年時点では土日休日に六田始発で存在。その時は阿部野橋行き)


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更に、吉野から古市までの各駅停車も設定されていることから、
なおのことなぜ712列車が準急として設定されているかの謎が残ります。


この列車の設定理由は、
最早スジ屋と神以外誰もわからないのでしょうか…。




これからも更新してまいりますので、
支援ついでに1ポチお願いいたします<(_ _)>

2018年3月のダイヤ変更で、ある列車の運行が廃止されます。

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伊勢中川始発名張行き急行
第1622列車と1822列車です。

このうち1622列車に関しては言うまでもなく
快速急行につながっていたスジなのですが、

1822列車に関してはその存在自体が疑問でした。

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1822列車の存在自体を否定するのではなく、この列車の設定理由が謎でした。

この列車は変更前、終着名張で2両増結してすぐに名張始発の大阪上本町行き急行
として運転されていました。


通常、単に途中で増結するだけで種別がそのまま同じなら運用番号は
変えなくても同じ列車として十分通ることは可能です。
(1622列車は終着駅から種別変更するので問題ありませんが、名張までやって来た
区間準急・準急が青山町行き普通列車に化けて運用に入るのも考え物です。)


それ以上にもっと変な列車はいましたが。
(伊勢中川→青山町まで普通。そこから普通名張行き。挙句の果てに青山町で
名張行き急行第1822列車に進路を譲るというわけのわからなさ)


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断わっておきますが、
各駅停車あたは優等種別でも各駅停車区間に位置する終着駅から再び普通列車に
化けて運用に入るというのは大阪線以外にも存在します。


京都線の新田辺行き準急、4両編成の時はそのまま大和西大寺行き普通に化ける
事もあるそうです。


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名古屋線でも同様の現象が起こっています。

(四日市まで普通、四日市から準急に化ける<だったら最初から準急にしとけ>)
(その逆など)



この前も簡単に紹介はしていましたが、
近鉄はどうも運用回しに関してはちょっと不得手な印象があります。

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そのくせして南大阪線のラッシュの下り急行で、
古市で切り離した車両が続行で普通列車に入るという上手な回し方が見られる節も。


…これもうわかんねぇな。



今回は、以前取り上げた話をさらに掘り下げてみました。





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昔から国鉄と私鉄は、互いを敵視とまではいかないものの、
輸送力競争をしている間柄でした。

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京阪間、

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阪神間


其々の都市間で乗客の奪い合いを進めていました。


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その中でも長距離客は国鉄、

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短距離輸送は私鉄に集まる傾向がありました。


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一方で阪奈間、

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名伊間は、近鉄に対して後れを取っていました。

(名阪間は在来線では近鉄が優勢、新幹線が絡むと国鉄優勢。)

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京奈間も同様でした。

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阪奈間では、1973年に湊町と奈良間で電化完了された
関西本線快速に113系が導入されるなど、多少の輸送改善はみられていました。

この区間は民営化後、221系の導入による高速化等、
近鉄に対し攻勢を仕掛けることになります。



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しかし名伊間、京奈間では気動車による運行で、
このうち名伊間の一部と、京奈間はのちに電化されましたが、

単線区間が続くこと、名伊間に至っては電化区間が近鉄が全く関与しない
亀山だったため、名古屋と四日市の区間では競合していくものの、

純粋に松阪や伊勢市と名古屋の間では、殆ど勝負になりませんでした。


今回は、非電化の絡んだ名伊間の輸送改革についてみてみようかと思います。

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1992年、まずは特急南紀で使用されていたキハ82形の置き換えに、
120㎞/h運転に対応したキハ85形を導入し、南紀すべてをこの車両で統一します。

100㎞/h運転だったキハ82形の場合、
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120㎞/h運転に対応していた近鉄特急に対して太刀打ちできないどころか、

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110㎞/h運転の一般車両よりも遅いという状況でした。

その状況を打開しようと導入されたのがキハ85形です。


実際、名古屋~紀伊勝浦間で車両変更前と後で42分の差がありました。


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翌年には、快速みえで運転されていたキハ58・65の置き換え用として、
キハ75形を導入。

キハ58・65のみえ用の車両は110㎞/h対応に改造され、
近鉄の急行とほとんど変わらないくらいの時間で走行していましたが、
そもそも車両自体が古く、この先使用し続ける余裕はありませんでした。

キハ58・65の時でも65分程度で名伊間を結んでいました。
キハ75の導入では、120㎞/h運転に対応しながらも、
スピードアップがそれほど大きい幅のものではなかったために、
およそ5分の短縮にとどまりました。



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また四日市以北では、列車本数が何年か毎に増便され、
さらに最高速度も殆どの列車で120㎞/hに向上され、
列車単位では近鉄よりも速い列車も増加しました。


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しかし、近鉄のシェアの多くを奪うには至っていません。

それもそのはず、

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いくら本数が増えたところで、近鉄の輸送量がまだ圧倒しています。

JRでは最大5両、近鉄では普通列車は2両、それ以外は殆ど6両。

さらに名古屋まで向かう本数も近鉄の方が圧倒していました。
(四日市時点で特急2、急行3、準急2、普通2)
(JRは快速みえ1本、亀山からの快速1本、普通2本)

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また、伊勢鉄道線を通る快速みえは、
亀山を通らないことでショートカットこそできますが、
一部の企画切符では伊勢鉄道線の追加運賃が徴収されるなどの
問題点もあります。


しかしそれ以上に問題だったのは、
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新幹線・在来線ともに東海道に傾倒しすぎて、
それ以外の路線は後回しにしていたことです。

実際東海道線の旅客需要は多く、長大編成の頻発や
速達性の追求などが重点的に行われていました。

民営化以前は特にその傾向が強く、東海道線に接続する路線の
殆ど(特に関西・名古屋圏内)は電化されていないのが殆どでした。

更にその接続路線の本数もそれほど多くありませんでした。

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近鉄の場合、大阪・名古屋・京都・奈良などの都市区間や観光地を、東海道線を
避けるようにして網羅していることも響きました。

結果東海道線沿いの他の私鉄との競争が激化するなか、
それをよそに近鉄に水を開けられるという状況に陥りました。


今でこそほとんどの区間で電化、スピードアップが図られ、
京奈間では複線化が進められており、今後近鉄の輸送力に
匹敵する程度のシェアを獲得するかもしれません。

しかし長年東海道線に集中しすぎてこれらの路線への投資を
あまり行わなかったツケは、今でも奈良県と三重県において、
「鉄道=近鉄」と言わしめるほどのものになっています。




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鉄道車両は大量生産が必要になると、多少の変更は行われど、
なるべくそのデザインを類似したものにしようとする傾向がありました。


しかし高度経済成長が過ぎ去り、大量生産でとにかく供給量を多くし、
その需要に何とか対応させる時代はもう終わりました。

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今ではほとんどの鉄道では、車両デザインの根本からの変更や、
車体の更新というものに力を注いでいます。


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そんな中でも、阪急電鉄はその例外と言ってもあながち間違いではないでしょう。

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見方を変えれば、近鉄の一般車両についてもほとんど同じことが言えます。

今回は、この2社が受け継ぐ車体と、その変遷についてみてみようかと思います。


まずは阪急電鉄から。

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阪急電鉄の車両の車体の原型となったのは、2000系よりも約25年遡った
1934年登場の920系と言われています(厳密にいえば1930年登場の900形)。

この時ははまだ前面のデザインが確立されたに過ぎません。

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当時宝塚線はまだ建築限界が神戸本線や京都本線よりも小さく、
車両も完全に別設計。

しかもこの時は殆どすべての車両が2扉で、

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どちらかというと6300系に生きていくものでした。

3扉のスタイルが確立されたのは、
1958年製造の1108号車以降の話で、それもまだ片開き3扉でした。

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そして、両開き3扉で登場した2000系のデザインが、
今後阪急電鉄の車両デザインの大本となります。


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事実、
2000系の姉妹形式や
2300系、2800系、3000・3100系、5000系、5100系、5200系は、

何れも製造当時は完全にその車体スタイルが2000系と一致していました。
(多少の変更や、2800系に関しては2扉車などの差異もちろんありましたが)

3300系、5300系に関して言えば、
製造当初から堺筋線直通対応のために方向幕が簡易的に備わっていた
だけなので、実質2000のスタイルとほとんど同じでした。

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そのデザインに少し改良がくわえられたのは、2200系の登場からでしょう。

この車両の登場から6000系、6300系、7000系、7300系は登場時から
左右に方向幕を装備するようになったほか、種別灯が標準装備になります。

既存車両の多くは、このタイプに改造されました。


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とはいえまだ登場時は白ハチマキは巻いておらず、
結果的には設計は2000系準拠でした。

(その一方で、列車の操縦方式は2ハンから1ハンに変わりました。)


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なお、原型から2200系タイプの顔に改造された5000系は、その後更にリニューアル
工事を実施して、ご覧のような顔になりました。

このスタイルはまた後程紹介します。


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1989年に運転を開始した8000系は、
前頭部のデザインを大きく変更しました。

左右の窓は何れも縦の長さを大きく取りました。

貫通扉の窓も縦方向に大きくなり、更に量産車では初めてVVVF化されました。

種別灯も丸型から角形へ更新を受けました。

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8000系・8300系は側面の形状こそ2000系を継承していますが、
前面のデザインは形式の中でもいくつか分かれています。


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9000系、9300系では更にデザイン変更されました。

側面はそれまで扉2か所の間に存在する窓は3枚で、いずれも独立していました。
それをすべて連接窓に変更。

前面は8000系の中期タイプのスタイルをほとんどそのまま継承しました。

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2代目の1000系・1300系は、側面は9000系譲りですが、
先頭部に関しては2000系を連想させるようなデザインに。

一方で窓の長さは8000系同様縦方向に大きく取られているなど、
それまでに製造されたすべての車両の要素を取り入れたものとなっています。

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さて、大規模改造を受けた車両に関しても少し言及しておいたほうが良いでしょう。

7007・7008・7320の各編成のスタイルは、
ちょうど9000・9300系が最新鋭だった時に完成したものです。
(それには5100系5119号が実験体として使用された)

1000系の設計には、この3編成の存在も大きくあったと思います。


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一方5000系の改造スタイルは、暫くの間これに類似する車両が出なかったものの

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7010Fなどのデザインをほぼ踏襲しつつも、貫通扉の窓を伸ばした7303Fの
登場により、今後の7000系列のリニューアルでは、5000系のリニューアルとほぼ
同じスタイルのものが使用されることになります。


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一方の近鉄では、

車体スタイルを確立したのは6800系または1470系です。

このスタイルは非常に多くの車種で用いられました。

1480系、1600系、1800系、1810系、2000系、2400系、2410系、2430系、
2470系、2600系、2610系、2680系、2800系、6000系、6020系、6200系
1000系

その中でも種別灯が角形か丸形か、
方向幕が最初からついているのかついていないのか

山越えに対応しているのかなど、様々な面で違いはありました。

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一方その派生タイプとして、

900系、920系、8000系、8400系、8600系、8800系は
裾を絞ったタイプの車体があります。

このうち920系はのちに1010系に改造され、名古屋に転属しました。


このタイプの車体が、今後広まることとなります。

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なおこれら以外に、京阪への乗り入れを考慮した820系もありましたが、
こちらは18m級且つ2扉で、顔のスタイルは6800系のそれと同一ですが、
横は2扉とかなり小型車両でした。

後に860系に改造され伊賀線に移籍し、2012年まで活躍しました。

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このタイプの車体は、後程紹介する3000系タイプの車体と、1470系タイプを
融合させたもので、製造数でいえば最も少ないです。

採用された形式は、1400系、1200系、1201系、1420系、2050系、6600系
総勢6形式にとどまりました。

1420系を除いて、すべて界磁チョッパというのもこの車体の特徴です。

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近鉄車両の製造において、まず1回目の大きな変化が3000系の登場でした。

それまで、拡幅車体を採用しながらもすべて丸屋根だったのを、
窓や前照灯の位置はほぼそのままに、試験的に製造されていた8000系の8069F等を
ベースに完成したスタイルです。

この車両は、内部的にもかなり先進的でした(電気指令式ブレーキを導入した)。
しかしそれが仇となって固定運用を組まざるを得ず、最終的にHSCブレーキに
改造され、2012年まで活躍しました。


このスタイルは、シリーズ21の登場まで、全ての車両が採用しました。


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シリーズ21と呼ばれる新しい増備車両では、
先頭部のデザインがかなり改良されました。

・窓が拡大される
・種別灯は車体の下に

など。


その為、3000系を彷彿とさせるような設計となっています。

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なお、3200系、3220系、7000系、7020系は設計が非常に特殊でした。

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5200系は、3000系のスタイルを色濃く保っているものの、
種別灯の形状やドア数が3つなど、随所で違いが垣間見えます。



このように、阪急と近鉄では、車両設計をなるべく前世代の車両に
合わせる形で、古くからのデザインの系譜を辿ってきました。

しかし何れも大きな変更が加えられ、
また古い車両の置き換えが必要になってきました。


今後の設計で新しいものに変わるのか、
気になるところですね。





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鉄道の規模が大きければ大きいほど、
自社保有の車輛修繕や検査機能を持つ工場の数も大きくなります。


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近鉄にも、各車両の所属所という形で検車区が存在します。

車両の在籍が今の所ない白塚、
そして大阪線の基幹の高安
名古屋線の富吉
両線の明星
奈良線系統の西大寺、東花園
南大阪線の古市

に、それぞれ検車区が設けられています。

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その他、車両更新等に関わる施設として、
検修車庫というものが塩浜と五位堂に存在します。



全般検査・重要部検査についてもこの2か所で実施されますが、
そのほとんどは五位堂で行います。


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名古屋線所属の殆ども五位堂で検査を受けますが、

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抑速制動の無い1000系でさえも、青山峠を越えてやってきます。


しかしこれらは何れも、過去には塩浜で検査を受けていました。

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塩浜工場では、現在でも行われている養老鉄道・伊賀鉄道などのほか、
名古屋線の車両の検査、更新工事を請け負っていました。

しかし2006年頃から、検修規模が一気に縮小されます。


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車両更新は高安へ、
定期検査は五位堂へその機能が殆ど移されました。


検査機能の集約は、他の鉄道でもよくあることです。

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阪急電鉄では、各路線でそれぞれ1つずつ車庫を持ち、
交番検査の機能を持っているものの、

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大規模な全般検査や、更新工事は京都本線にある正雀工場で行われます。

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近鉄より若干規模の小さい名鉄でも、車両の簡単な整備は
須ヶ口併設の新川、犬山、茶所等で行われますが、
大規模な更新工事は舞木で行われます。

このように、規模の大きい鉄道でも更新工事等の大規模な機能集約は
あり得ることなので、近鉄がそれを実行するのも無理もありません。
(それでも2か所ありますが)

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しかしここで一つ疑問が生じます。

通常近鉄では、抑速制動がついていない車両の青山峠越えは禁止となっています。

しかしこの場合だと、青山峠の区間に1810系や1000系などが入線することに
なります。


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しかしこのためだけにモトや、
抑速制動付きの車両を伴車として運用するのは考えにくいです。

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結果、当該区間は回送として走行するので、
あくまで青山峠越えを例外的に実行する以外にありませんでした。


なお、この例外は以前も使用された可能性があります。
画像の1010系は、元々京都線用の920系として運転されていましたが、
古い車両の機器を供出されていたがために、電気ブレーキを持っていませんでした。

この車両が界磁位相制御に振り替えられた時も、電気ブレーキを搭載することは
ありませんでした。

京都線から名古屋線に転属したとき、もし単独で回送運転されていたとすれば、
この例外が適用されていたことになります。
(画像が無いので何とも言えませんが)


にしても、なぜ塩浜の規模を縮小せざるを得なかったのか…





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東海道線、大和路線、奈良線、宝塚線では、主要駅を速達輸送しかつ、
中・長距離運転される列車には3扉、

地域間輸送に徹する列車は4扉という運用の使い分けがあります。



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この動きは、103系の導入が東海道線に始まった1969年よりも以前から
続いているようです。

(101系は東海道線に導入されなかったが、72系電車が緩行線で運行されていた)


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一部の急行型と呼ばれるタイプの車両は、2扉の状態で快速運用に充当される
こともありました。

しかし、大体の京阪神快速は近郊型3扉の113系などが充当されたようです。


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どうやらこれには、高度経済成長期よりも前に形成されていた
都市圏内の輸送に対する考え方があったようです。


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短距離(都市圏内)においては、必然的にほとんどの駅で鉄道の需要は高まる傾向に
あります。

その為、まずは座席うんぬんよりも、乗客を乗せることの方が重要です。


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一方広域輸送の場合、基本的には都市と郊外を結ぶことになります。
当然郊外でもラッシュは起こり得ます。
当時ベッドタウンも増え、郊外の時点で混雑も発生していました。
その状態で都市圏内のラッシュに突っ込むには、
あまりにもキャパシティが足りなさすぎるという問題がありました。

しかし長距離での通勤などとなるとなるべく座っていたいと乗客が思うのも
また当然の話です。

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それを指し示すかのごとく、4扉ではロングシート、
3扉ではクロスシートという使い分けが、戦後の国鉄では恒常的に
行われてきました。


実際首都圏においても、
京浜東北線や山手線が4扉で運転されたのに対し、
平行する東海道線は3扉が基本でした。


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近年、その考え方を打破しようとしている路線もあります。

大阪環状線です。

ご他聞に漏れず、この路線でも線内運用は4扉、阪和線や関西線に直通する
快速列車の多くが3扉で運転されてきました。

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しかし103系や201系といった4扉車両は国鉄時代の製造。
老朽化も進んでいました。


一方でそれを置き換えるような4扉車両も存在しませんでした。

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とはいえこのまま4扉の中古車をとどまらせるわけにもいきません。


そこで、3扉車でのラッシュ運用に目を向けることにします。

結果それがはまり、
103・201の4扉の置き換え用に323系が導入されました。


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阪和線でも同様の動きがあり、
こちらは全車両が3扉の転換クロスに代わりました。


今後人口減少がさらに進むこのご時世、
今後もこのような動きが出て時が来るのでしょうか。




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阪急京都本線と京阪本線。

一時期、同じ一つの鉄道会社の路線でした。


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1949年に阪急が京都本線の経営権を握って以降、

所属会社の風土に染まっていきました。



しかし両路線ともに抱えるその路線的特徴によって、
共通点がわずかながらに滲み出ています。


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①特急用に製造された車両が存在する

阪急京都本線、昔の新京阪線では、P-6形と呼ばれる車両が、超特急という
種別で運転されていました。

阪急はこの系譜を踏む車両が、現在に至るまで何車種か製造されています。

一方京阪の場合、びわこ号の60型以外の車両は戦前時存在せず、
特急主体の車両が生まれたのは1951年のことです。


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②長時間運転を目的としたワンハンドル主幹制御器の存在

阪急は6300系以降、京阪では8000系が該当します。

当時ツーハンドルが主体の両社。


京都本線の特急は当時十三・大宮・烏丸

京阪本線は当時北浜・天満橋・京橋・七条・四条・三条と、

かなり停車駅を絞っていました。


特に、十三~大宮と、京橋~三条は県境を越えるほど長時間の行程でした。

その為ツーハンドルだと、左手で運用中マスコンハンドルを握ったままにするなどの
弊害がありました。


京阪電鉄では定速制御可能な様式としたとのことですが、
当時ノンストップだった当該区間が気にかかっていたのでしょう。



他にも共通点はありますが、それは昔通用していた話で、
現在は通用しないパターンなので、今回は伏せておきます。



何だかんだいいながらも、
意外なところで共通点を持つ、2路線のお話でした。




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